長野県諏訪市湯の脇1丁目に建つ「臨江山 温泉寺」へ御朱印を頂きに行ってきました。
温泉寺は、寛永十七年(1640)に創建された済宗妙心寺派の寺院です。
江戸時代に諏訪地域を治めた高島藩主諏訪家の菩提寺で、歴代藩主の墓があることでも知られています。
このページでは、そんな由緒ある温泉寺の御朱印と境内の様子、アクセス方法や駐車場などの情報をご紹介していきます。
目次
温泉寺の御朱印
私が訪れたときは、期間限定の御朱印も含め四種類ありました。
- 諏訪湖七福神の布袋尊の御朱印
- 守屋貞治作 石造観音「微笑観音」の御朱印:諏訪三十三観音霊場二十四番札所
- 御本尊の薬師如来の御朱印:中部四十九薬師霊場第七番札所
- 諏訪紅葉三山めぐりの期間限定御朱印
私は、御本尊の御朱印と諏訪紅葉三山めぐりの期間限定御朱印を頂きました。
御本尊の御朱印
諏訪紅葉三山めぐりの期間限定御朱印
温泉寺のお寺カード(テラカ)
仏法紹隆寺の宥全住職が発案したというお寺カード(テラカ)を頂くことができます。
温泉寺の境内図
温泉寺の境内
諏訪家は、はじめ茅野市永明寺(現在は廃寺)を菩提寺としていましたが、政治の中心が上諏訪に移ることによって温泉寺が創建され菩提寺となりました。
発願した初代の諏訪頼水公は、病のため温泉寺の開創を目にすることはできませんでしたが、二代目の諏訪忠恒公が父の遺志を継いで創建しました。
本来の開基は忠恒公ですが、自ら固辞し、すでに亡くなってしまった頼水公を開基としました。
温泉寺は、元文二年(1737)と明治三年(1870)の2度の火災により伽藍のほとんどを消失しましたが、明治四年(1871)に高島城内から建物を移築して復興を果たしました。
山門
山門をくぐって振り返ると諏訪の街並みが広がっていました。
鐘楼
温泉寺の名の由来は、境内地に湧き出す温泉をはじめ、近くの温泉の守り仏として、この地に薬師如来を祀ったお堂があった場所を広めて寺を建てたことによるそうです。
経蔵(転輪蔵)
この経蔵には、安永九年(1780)初代、立川和四郎冨棟の手になる八角八面の輪蔵があり、その中に黄檗板大蔵経がおさめられています。
これはその昔、文字を知らない人のために真心を込めて一回転することにより経文を読んだと同じ功徳があるとされています。
梵鐘
温泉寺にある梵鐘は、県宝に指定されています。
天正十年(1582)織田信忠の軍が伊那郡市田村(現高森町下市田)の安養寺から略奪して、上之諏訪(神宮寺)まで引きずってきて、そこへ捨てていったものを、温泉寺創立にあたって流用したものといわれています。
本堂
温泉寺の本堂は、文政十年(1827)高島藩主八代の忠恕のときに城内に建てられた能舞台であるが、明治三年(1870)寺の火災ののち本堂として移築されたものです。
中央に三間四方の本舞台、後坐、地謡坐などの遺構を残しています。
地蔵堂
この地蔵尊金佛は、當山十代住職願王和尚が京都九條関白家より文化年間(1804~1814)に拝領された尊像です。
多宝塔(鉄塔)
温泉寺の鉄塔は、諏訪市有形文化財に指定されています。
鉄塔とはいうものの石造りであり、もともとは諏訪大社上社の御神体とし、拝殿の奥に安置され、信仰の対象でした。
弘法大師が建て、腐朽したため源頼朝が再興したと伝えられています。
寛永八年(1631)高島藩主の諏訪忠恒が石造にて復興し、この仏舎利を祀りました。
明治初年の神仏分離によって撤去放置されたのち、湯の脇天神山に移し、一社を設け祀る計画もありましたが、国学者の反対で実現はしませんでした。
藩主の菩提寺である温泉寺に移され、安置することが決まり、現在に至っています。
現在の多宝塔に納められたのは昭和五十四年(1979)です。
庭園
庭園を見学することもできます。
座布団が置かれていました。
庭園の苔も素敵だったので、写真に収めました。
野菜の無人販売もされていました。
立派な大根が並びます。
和泉式部の墓
秋は紅葉の名所として知られています。
真っ赤に染まった境内の様子については、別のページに詳しく載せていますので、こちらをご覧ください。
温泉寺へのアクセス方法
電車(最寄り駅)
- JR中央本線の「上諏訪駅」から徒歩約20分
駐車場
- あり
地図
- 住所:長野県諏訪市湯の脇1丁目21-1