長野県諏訪郡下諏訪町東町中に建つ「白華山 慈雲寺」へ御朱印を頂きに行ってきました。
慈雲寺は、大祝金刺満貞が、鎌倉五山の一つ建長寺住職一山一寧禅師を招いて正安二年(1300)に開山された臨済宗妙心寺派のお寺です。
そんな由緒ある慈雲寺の御朱印や境内の様子、アクセス方法や駐車場などの情報をご紹介していきます。
目次
慈雲寺の御朱印
こちらが慈雲寺の御朱印になります。
慈雲寺は、伊那・諏訪八十八ヶ所霊場の十八番札所、諏訪郡霊場百番札所の西二十一番札所となっています。
慈雲寺の境内
慈雲寺へ参拝するのに拝観料などはありませんでした。
龍の口
慈雲寺の入口のところにある龍の口は、文政八年(1825)高遠石工の流れをくむ名工ヤマダ金右衛門作で、水留石が慶応元年(1865)に石工山田平蔵により完成されました。
この湧き水は、一山国師が錫をついたところから湧水したと伝えられています。
稲荷社
入口参道の石段をあがった右手に稲荷社が建っていました。
稲荷社が建っているところから、石段が本堂へ向かう道と矢除石へ向かう道と二手に分かれています。
寶光院
稲荷社の隣に建っているのが寶光院です。
不動滝
矢除石
武田信玄が上杉謙信との戦いで川中島へ出陣する途中に、慈雲寺の天桂禅師のもとを訪れました。
そのときに天桂禅師がこの大石の上に立ち、武田勢に矢を射かけさせると矢はすべて大石にはじかれてしまい天桂禅師にはあたりませんでした。
信玄公が不思議に思い、天桂禅師に尋ねると、この大石には矢除けの法力があるといわれ、信玄公はこの矢除けの法力をこめた御礼を拝領して戦場へ向かったと伝えられています。
惣門(一ノ門)
惣門は、その彩色から俗に「黒門」と呼ばれています。
文化十年(1813)に村の大半を焼いた大火は、この門のところで止まりましたが、そのときに門が焦げ黒い門になったといわれています。
惣門(一ノ門)をくぐり階段をあがった先の様子です。
中門(二ノ門)
中門は、元和四年(1618)に藩主であった諏訪頼水公の十三回忌にあたり寄進されたもので、平成十四年(2002)に解体修理が行われました。
六地蔵
延命地蔵
中門をくぐった先に建つ地蔵堂内に延命地蔵があります。
杉並木の参道
中門から山門へ続く参道は、美しい杉並木と苔が敷き詰められていました。
苔寺とまではいいませんが、とても幻想的で美しい景色が広がっています。
金毘羅堂
天保年間の大飢饉に際して、慈雲寺が仁孝天皇の綸旨を賜ったことを期して、讃岐の国、琴平山に鎮座する金毘羅神社本宮の御分霊を勧請し祀ったのが始まりです。
豊年萬作だけでなく、諏訪湖で漁業に携わる方々の安全豊漁を祈願しています。
日根野高吉供養塔(五輪塔)
諏訪高島城を築城した日根野高吉公の供養塔(五輪塔)。
慶長五年(1600)に亡くなられた後に慈雲寺に葬られ、慶安二年(1649)の五十回忌に当たり、嫡子の日根野嘉明公(大分藩主)によって追善供養の五輪塔が建立されました。
諏訪地方最大級の五輪塔で、町文化財に指定されています。
山門(三ノ門)
安永三年(1776)に建立された山門(三ノ門)は、町文化財に指定されています。
また、県宝となっている応安の梵鐘が楼上にあります。
応安の梵鐘は、足利義満公が将軍についた年に造られたもので、このころの梵鐘の作例は少なく珍重されています。
天桂松
山門をくぐった先にある天桂松は、圧倒的な存在感を放っています。
天桂玄長禅師お手植えの松として「天桂松」と名がつけられ、樹齢400年以上といわれる町天然記念物です。
本堂
現在の本堂は、文化三年(1806)の火災によって消失した本堂を文化五年(1808)に再建したもので、町文化財に指定されています。
帰錫庭
開山堂(位牌堂)
地泉庭
本堂裏にあるのが、地泉庭です。
最初の作庭は、開山一山国師とも武田信玄公とも伝えられ定かではありません。
現在の様式にととのったのは、天保八年(1837)だそうです。
秋には美しい紅葉の景色が広がります。
詳しい様子については、別のページに写真と動画で載せていますので、こちらをご覧ください。
慈雲寺へアクセス方法(行き方)
電車(最寄り駅)
- JR中央本線の「下諏訪駅」から徒歩約25分
駐車場
- あり
地図
- 住所:長野県諏訪郡下諏訪町東町中606